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モフセンキャディーヴァル師(Mohsen Kadivar)、04年春、同志社大学神学館にて

イスラ−ム文化における「公と私」について・序説

                      
要旨

 宗教、とりわけ、その文化的な諸構成要素は、公と私の領域の範囲を決定づける最も影響力のある要素の一つである。アブラハムの流れを汲む宗教(すなわちユダヤ教・キリスト教・イスラーム)は、個人の私的な生活に重点をおくことを介して人間の独自性を生み出した。それでは、イスラーム的見地からした私的領域の範囲とはいかなるものか。イスラーム法《シャリ−ア》に従う社会の中で、私的な領域は、変化もしくは減少してゆくだろうか。イスラームの倫理や法学、信条において公と私の領域を区別する基礎は明らかであるが、その公と私の領域の問題はまだ、独立した学問としては成り立っていない。したがって、上記のような種の疑問に答えるため、この論文は導入かつ草分け的な論議という性格を持つ。

1.プライヴェ−ト(私的生活)とは、つまり他人から隠されている領域である。守られ、他人から距離を置いた、その人自身が決定権を持つ領域である。この最初の基準によって、他人の調査や監視を排除し、第二の基準によって他人の保護や父権を取り除く。対して公的領域は、隠されも遠ざけられもしない事柄である。この領域では国家が影響を及ぼしている。

2.《シャリ−ア》の規範によれば、その原則は公的なものではない。つまり、どんな事柄も、それらが公的なものであると証明されない限り、私的な領域に属しているのである。誰も、他の人々の事情について、その事柄が公的領域に属しているという証拠が満たされない限りは、誰もそれに対して問いを投げかけることはできない。誰もが彼ら自身について決定を下す一方で、また他の者が別の人間の事柄に干渉するには理由が必要である。さて、我々が問うべきことは、どのような場合において宗教的議論が、他人による追求、詮索、干渉に先立ち、個々の同意を得る必要を免れるだろうか、ということである。

3.敬虔な信徒は、その信仰の諸原則によって彼の生活の総ての側面に正しい方向を見出す。これに基づくと、彼にとって公と私の領域の間にはなんら違いは存在しない。神は信者の生活のいたるところに存在し、信者たちは自由に彼らの行いに神の同意を選ぶ。敬虔な信者は、その行為が誰かの権利を踏みにじったものでない限り、世俗的な刑罰を背負うべきことを立証するために、誰かに自分の罪を告白する必要はない。彼自身が悔い改めれば充分である。自分の罪のさらなる公表を控えることが宗教にとって最善である。イスラームにおいては、神と個人の関係は直接的なものである。誰も他人に信仰を押し付ける権利はないし、宗教的な義務や責務を強制することもできない。

4.コ−ランは明確に、他人の(その相手がムスリムであろうとなかろうと)私的事柄の詮索を禁じ、加えて私的な事柄を公に広めることも禁じている。《シャリ−ア》によって、誰かの私的領域に干渉したり探りを入れること、またそれらの情報を広めることは、単に宗教的な罪になるだけでなく、世俗的な刑罰の対象ともなる。つまり、個々の私的領域における権利は確実にイスラーム社会を取り巻きつつあると言えるだろう。

5.『主権』と『監督者の不在』という二つの重要な原則の結果が、《シャリ−ア》の枠組みの中での私的な生活における個人の自由である。個人は、彼もしくは彼女の私的な空間の中では、それが他人に害を及ぼさない限り、たとえそれが宗教的罪になるとしても、何をするにも自由である。しかし、それがイスラームの基準が法に影響するイスラーム社会の公的領域であれば、居住者にはその衣服や飲食、経済的な取引行為や礼拝に制約が課せられることになる。それ故に、イスラーム文化の中での私的領域は、現代世界の基準に比べれば狭く、公的領域は世界の一般的などの国と比べてはるかに広い。その境界線を越えることは、宗教上の罪を犯すことであり、また法の下に裁かれる犯罪でもある。公的領域で固守することが求められているのは宗教の外面的形式であり、宗教の本質というものは、人の良心と神自身によってのみ評価されるものである。

6.勧善禁悪≠ニいう必須のルールによれば、イスラーム社会の市民は、公的領域で目に見える罪を犯すことも、それを犯す振りをすることも許されない。もしそれをすれば、他のムスリムたちから、不愉快で無遠慮な注意や、恐らくは力ずくでの反応といった、不満の表明に直面することになる。勧善禁悪≠ヘ、政府の監視や不正に直面した際に、ムスリムたちの掌中にある、重要で力強い手段になる。それはまた市民たちに、イスラームの価値と原則の維持を保障する。同時に、それが不正確に用いられることで生じる現実を監視出来ないでいると、この宗教的な義務は容易く、人々の私的領域を不当に妨害する手段へと変わる。言い換えれば、この原則の濫用は、不当で未熟な者たちの掌中で、個人の正当な自由を蝕むための武器になり得る。

7.公益監督制度(ヒスバ)はイスラーム政府機関の一つであり、その使命は、社会における善の拡大と悪の阻止にある。公益監督制度は、公的領域全体を包含している。
 市場監督官(ムフタスィブ)の仕事は、公的領域の問題に介入し、一般に見られるイスラームの価値と基準を守ることである。市場監督官は、以下のようなことを通じて公的領域の浄化を企てることが出来る。つまり、命令された行動や、公共の利益の観点から薦められている行為や許された行為の強制、禁じられたり、公共の利益の観点から許されてはいるが好ましくない行為の放棄の強要、犯罪者や違反者らへの拘留や体罰(つまり鞭打ち)など、罰金刑を除く懲罰(タアズィール)などである。市場監督官の絶対的な権力は、私的領域にとって深刻な剣であり、それによって公的領域から、個人の活動のためのすべての自由を取り除くことが出来る。

8.もし宗教的な国家が、全体主義や独裁制の手法を採用したら、私的領域は、宗教的ではない環境下よりも、多くの打撃を被ることだろう。宗教的な国家において?例えばスンニー派におけるカリフ制やシーア派における法学者の統治(ヴェラーヤテ・ファキーフ)―公共の利益は、いとも簡単に私的領域を切り裂く鋭い剣である。イスラーム統治者、あるいは政府の無制限な権力によるそうした強要への屈服は、私的領域の侵犯に対して、白紙委任の許可を手渡すのと同じである。確固とした法的な制限、つまりすべての市民の絶対的権利が、政府によって決して傷つけられることの出来ないように確立されていないところでは、社会が長期的に、健全に存続することは出来ないだろう。

9.繊細に注意を払うことなしに、勧善禁悪≠ノ過度に頼ると―それは公益監督体制や、宗教的な統治者の絶対的な権限、イスラーム法(シャリーア)に優先する国家の利益の是認などだが―社会に宗教的な概念を持たせることは出来るにせよ、(勧善禁悪≠ノよって)改善を強いられる度合いに応じて、宗教の本質への忠誠心は弱められ、だましと逸脱、そして宗教を支持する外面的とりつくろいだけが広まることだろう。それがもし、公的領域を蔑んでいる私的領域から構成されているのだとすれば、宗教的な公的領域とは、どれほどの価値を持つのだろうか。勧善禁悪≠フ必要性は、寛大さと慈悲という、より広い宗教的文脈の中で考察されなければならない。勧善禁悪≠ニいうこの原則の意味は、良き行為を促進するとともに、悪の拡散を阻止する下地を用意することにある。重要なことは、社会の宗教的な良心が再構築されることである。宗教的な意識を清めることなしに、しかるべき行動に従うように強制するのは、正しい問題解決の方法ではない。他人の行動が宗教に沿ったものであることを保証するためには、私的生活の最低限の範囲が法律の中で明確に確立されることが要求される。市場監督制度(ムフタスィブ)は、公的性により、しかし市民組織による構成である限りおいて、支持され得るものである。イスラーム思想は、無条件の統治や、宗教的な制約からはみ出すような利益を主張することには馴染まない。私的領域が、宗教的な原則の枠組みの中で健全な機能を維持し得る均衡点に到達出来るかどうかは―公的領域と並んで―イスラーム法の解釈(イジュティハード)への新たな眼差しや、それを刷新する努力次第である。

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 公≠ニ私≠フ区別は、ある意味で人間の存在それ自身と同じくらい歴史を持つものだろう。中心的な関心事として、侵入者による詮索に対するプライヴァシーの防御という私的領域に関する強調の高まりは、今日、先例がない度合いに至っている。長い間、政府は彼らの臣民たちの私的領域に侵入してきた。そして今日では、驚くべき技術的な発展と、想像を超えるような電子的なコミュニケーション装置が政府の助けとなり、プライヴァシーの境界を威嚇してきている。

 私的領域と公的領域の境界を示すものは、明らかに文化的、政治的、そして経済的な諸要素の複雑な集合によって決まり、そのような諸要素間の相互作用の結果として、境界線は必然的に変わらざるを得ない。こうした文化的な要素の中でも、宗教は2つの領域の境界を定めるに当たって、最も決定的な構成要素の1つとしてクローズアップされている。宗教は、個人個人のための私的領域を明らかに認め、正当化する。西欧の宗教では―それはアブラハムの伝統だが―人間のアイデンティティーと個人主義は、私生活の承認と許容を介して重要視されている。この論文は、イスラーム文化における公と私の考えについての論争に、某かの光を当てることを狙いにしている。

 イスラームは、現代社会の活気に満ちた宗教の一つとして、公的領域と私的領域公をどのように区分しているのだろうか。イスラームの視点から見て、プライヴァシーの領域とは何だろうか。プライヴァシーの受け止め方に、イスラームと西欧の間にはいかなる相違点があるのだろうか。一般に、ムスリムの私生活の特徴を際立たせているものは何だろうか。シャーリアに沿って管理される社会において、私的領域は変化するのだろうか、あるいはことによると縮小するのだろうか。プライヴァシーに対する個人の権利に関する、宗教的な政府も含めた政府の権限の及ぶ範囲とは何だろうか。個人、家族、社会といった概念についての、イスラームの視点とは何だろうか。
 
 この論文は、上記のような疑問についての、意義深い議論のために枠組みを練り上げ、導入的ではあるが核心的な論議を提起する。それは単に、複雑な問題の導入への準備をするものである。

 私的領域とそうでないものとの基本的な区別は、イスラームの倫理、法、そして法学の分野の中で、ありありと識別される。しかしながら研究の独立した重要なテーマとして、公と私の領域の系統的な研究は発展途上にある。ここで我々は最初に、我々が言おうとしている概念についての手短な記述を提起するだろう。そして次に、我々の考えの主要な教義を確立する方向へと向かう。我々のプライヴァシーの定義から導き出された2つの推論によって、我々は2つの軸線に基づくイスラーム的視点を提起する。つまり一方は不当な取り調べの禁止であり、他方は行動における自由の権利の是認である。それから我々は、私的領域に関連する諸問題、すなわち勧善禁悪≠ニいうイスラームの原理、またイスラーム国家で行使されている政府の規制(ヒスバ)の合法性と権威の範囲について考察する。結論として、我々は個人のレヴェルでの宗教的な良心の意識向上と強化の必要性を強調する。


1.プライヴァシーと私的事柄の定義

公≠ニ私=Aこの二つの言葉はイスラームの教義そのものからくるものではない。これらはクルアーン、あるいは預言者やイマームのどの伝承からも生じたものではない。そしてイスラーム法学もまた、それらいずれの概念については論じていない。したがって、まず我々がその言葉によって意味するところが何かについて、次に、これらの概念に関して最も近い法裁定・判断をイスラーム的伝統に近づける試みをしなくてはならない。公≠ニ私≠フ意味は直観的で明快であるように見えるが、単刀直入な定義は容易でない。意見が合致するそれらの意味を見つけるのは難しいが、三つの異なった、しかし関連しあった意味が、入手し得る文献から明らかにされている。つまり、まず個人的あるいは個人に特有のもの。また、第二に、他から隠され、守られているもの。また、第三に、個人が排他的な支配を行うべきもの、である。我々の意味するところの私≠ニいう言葉は、二番目と三番目の基準に入るだけである。最初の基準は全く明快ではない。第二、第三、二つの条件が備わるときに、つまりある事柄が他人の目から隠され、それが侵入不能であって、そして個人が決定権を持つとき、それは私≠ニいえる。明らかに、人は他の信頼できる人々と共有することも、同時にそれを隠し、私的なものとして保持することもできる。人の私的な願望や欲望、そして個人的な記憶はこの領域に入るであろう。私的領域とは、個人だけの特権なのである。つまり他人はその領域における事柄に関しては、決定も助言も与えることができない。第二と第三の内の最初の基準は、情報が他の集団から保留されることを保証し、次の基準は他人からの保護権や権威を認めはしない。富や所産、居宅や地産、信仰や思想、身体や衣服、政治的主張や社会的所属は、それらの基準によれば全て私的なものとみなされる。ある一つの出来事はその両方の基準によって覆われているのであろう。ある場合には、情報を手にすることは問題の私的な性格に害を与え、またある場合には、手にすることは侵犯の条件を満たさない。つまりそれは情報を誰が公開すると決めるのかという問題になるのであろう。他人がそれを決定したり、その過程を改めたりする権利を持つのだろうか?囚人、精神病棟に入れられている患者、あるいは小さい子供が、私的な権利を持っていないといえるのだろうか。彼らのあらゆる私的領域を奪う全体主義体制に支配されている人々はどうだろう。体制が強くなるにつれて、その支配下にある私的な権利は少なくなる。対照的に、公的領域においては何も秘密ではあらず、あるいは市民から侵入不能とはされない。公的領域の運営、改良や変更は市民の特権である。公的分野は政府権力の影響下にある。この分野は、全ての市民により所有され、透明な容器として、それはすべての人の目の下にさらされる(市民が外交防衛や国家管理につながる事柄を、彼ら全員ではなく彼らの代表者の監督の下におかれることに同意する場合でない限りにおいて)。

私的なことはたずねるべきでない。また私的事柄の詮索は禁じられる。もし誰かが私的情報に遭遇しても、引き続きそれを公開することは許されない。私的領域事情の運営・管理は自らの運命に対し決定権を持つ個人の特権であり、他の誰もその私的領域に対し優先権を持つことはない。

この二つの与えられた基準に従って、イスラーム法学は私的領域の神聖さを十分に認める。他人への詮索に対しては十分な警告が見られる。予防策は、一方で個人情報のプライヴァシーを保証するものとされ、そして積極的には一人の生活の仕方を決定するにあたっての自由の促進と所有に関する個人的な権利を支持する。イスラーム法が完全に私的領域の概念に順応しうることにおいては、疑いの余地は無い。その問題は公的と見なされるものから私的領域の境界を明らかにすることにおかれ、我々はすでに述べた私的事柄の基準に矛盾しているように見える多くのイスラーム法を考慮しなくてはならない。


2.公と私の議論の原則
さて、我々は私と公の事柄における区別について基準を設けたが、次はその区別に含まれた意味合いを詳しく述べることが必要になる。

 シャリーアの基準によると、全ての問題における情況は一見したところでは公的なものではない。言い換えれば、すべての事柄は公的領域に属すると証明されるまでは、私的領域に属するものとされる。ある事柄が公的領域に属するものだとの証拠が提供されるまで、他人の事柄について尋ねるべきではない。調べたり調査したりすることで市民を支配することは一見原則に反しているように見える。調べるにあたっての根拠を得るには正当な証拠と十分な正当性が求められる。一方で、全ての市民は自分たちの事柄と見なされるものについての完全な決定権を持ち、また他方でそれに対する他人の干渉には正当な理由の提示が求められる。これは排他的監督権≠フ原則である。それは暗に誰も個人の事柄に干渉する権利を、特別の神聖な許可がない限り有していない、ということを意味している。これは基礎的なものであり、また理由や証拠を必要としないものとしての前提である。

この分析によると、個人に関連している事柄はただその個人の特権であり、それに関するいかなる調査や干渉も個人の承諾なしには許されない。その事柄に関するいかなる質疑も宗教法にのっとった正当な理由に基づくものとされるべきである。同様に、彼または彼女は他の諸個人の利害に関する意思を押し付ける権利を持たない(公的分野)−但しそれは、神聖な許可が与えられない限りにおいて。我々は以下について考えよう。つまり、どの場合において、合法な証拠に基づき、我々は許可なしに個人の事に調査と干渉をなし得るのだろう?いかなる事が全てのほかの意見に関わりなく、排外的にその個人に任せられるのだろう?この点に関して熟慮すれば、この議論が理性に立脚しているものだということが分かり、理性を越えて優先される逸脱の場合には、正当な宗教的論証(そして証拠)が求められる。


3.宗教的な私的・公的領域における敬神の必要性
信心深い個人は神に自らを捧げる。個人の生活を自らの宗教的敬虔さに一致させる選択の自由を持つ。イスラームはアブラハムから伝来する全ての宗教の名であり、その本質は神の意思への服従である。敬虔な個人はその生活の全ての側面を自らの諸信仰箇条に従わせる。従って、その者の思想と行動における私的と公的領域の間には違いがない。その信者の生活とは、二つの存在、すなわちその個人(自ら)と神を意識する生活である。つまり、神の命令に従って生活はなされ、信者は神の満足を自由な選択の下追求している。非信者は自身の行いは誰もしないと考えている。信者はしかし自身が心より歓迎する神の監視下にあることを意識している。信者はその神聖なる啓示の遵守を強制されてはいない。従って信者は場合によっては、(神からの)あれやこれやの要求を見逃し、こうして罪を犯すかもしれない。罪を犯すことはもちろん信者としての必要条件に反することであり、罪人には罰が与えられる。信者はもし、悔い改めなければ、罰される。しかしもし悔い改めるなら、その者は放免されるだろう。全ての罪は現世で罰されるわけではない。というのも最後の審判の日に罰を与えられるかもしれないからである。敬虔な者は、別の者の権利が損なわれた場合を除いて、彼がなしたことが現世での罰を受けるものであることがわかっても、行った罪を誰かに対して告白する必要は無い。つまり、それは罪人にとって、ただ神の前で悔やむことで十分なのである。言い換えれば、神に対してなれた罪で私的領域に属するものは、罪人に告白の義務を課さない。つまり、罪人にとって、その罪を公表しないことはこの宗教の最たる利点である。イスラームは神と個人が直接的関係にあるとみなし、そして聖職者を含むいかなる仲介者もその個人の懺悔において要求されることはないのである。何者も人々に敬虔であることを強制したり、他人に宗教的義務の実践を課したりする権利は持っていない。個人が、宗教が必要条件とするものの実践を怠り、あるいは宗教により禁止されたことを行うことは、いかなる理由であれ、それは個人の選択であり、ただ個人の責任なのである(すなわち、個人の私的領域である)。

しかしイスラームは、公的領域でもムスリムが守るべき諸規則を備えている。それゆえ、ムスリム社会の同意に従って公的領域を運営することに加えて、神の要求を満たすことも同様に求められる。これはイスラーム的行為規範を守ることにより保証される。クルアーンはムスリムに語りかける。ムスリムが、イスラームの規定にのっとった社会の運営を自由に選択さえすれば、その社会運営はイスラーム的であろう。そして、何時いかなる理由であれ、これらの規範が侵犯されれば、その社会は、たとえムスリム(が住む)社会であるとしても、もはやイスラーム的社会ではないであろう。

 神は公的領域を運営するために特定の機関、或いは組織を命じているのだろうか?ほぼ全てのムスリムが、預言者は判事であり、揉め事の調停者であり、そして公的領域の支配者であったとして見解の一致をみせる。預言者に従うことは、クルアーンに明記されているように、全てのムスリムにとっての宗教的義務である。その章、預言者はその信者自身よりも、信者にとって近しいものである=i第三十三章六節)は、ムスリムの私的生活に関連することでさえ、全て預言者の命令に包含されるものとする。シーア派では、預言者のほかに、無謬の十二イマームたちにも預言者と同等の権威を認めている。しかしイマームの不在期に、特定の人物あるいは人々の集団がそのような権威を持つものとして任命されているだろうか?それに対するムスリムの総意的答えは否定的なものである。すなわち誰も地上における神の代理人として振る舞っていると主張できるものはいないとする。しかし一般的には、イスラームの二大宗派におけるこれらの解釈はいずれも合意を得られていない。


4.探査や調査に対する厳格な命令

 私的領域の第一の基準は、その中にある事柄を他人から隠し、触れられないようにすることができるということである。この基準は、調査や探策の禁止の意味を含む一方で、私的領域での個人的な情報や事柄を言いふらすことも禁止している。この両方ともがクルアーンの中で明確に表されている。(クルアーン49章2節)

クルアーンのこの一節で、神は敬虔な信者に他人に対して疑惑や懐疑を抱くこと、また他人の個人的行為を覗き見ることを慎め、と警告している。この節の中で表現されている禁止は、法的な意味も併せ持っている。我々の討論は、個人が隠そうとしているもの−それが何であれ、それについて調べようとすることと関係する。クルアーンは互いの生活を覗きあうことに対して警告しているだけではなく、それらの情報を広めることも禁止している。

信仰は私的生活の尊厳を保障する。信者は、他人の個人的行為を覗き見する権利を持たず、他人について知ることとなったどんな情報も広めることは出来ない。これら二つの宗教的命令が明らかに含んでいるものは、個人の私的領域の完全な宗教的保障である。この保障は、ムスリムだけに適応するべきものだろうか。それともムスリムだけでなく、そうでない者も、社会に属する全ての構成員に適用できるものだろうか。この禁止は、信者についてのクルアーン24章からの引用であるが、クルアーン49章で述べられている不当な調査についての禁止は包括的であり、イスラーム社会に属する全ての市民は、ムスリム・異教徒の別なく彼らの私的行為の中に自由が保障されなければならない。引用された文章のほとんどと、それについての一般的な討議がムスリムについてのものではあるが、どんな宗教的理由も異教徒の私的領域への調査を正当化することはできない。そして誰もムスリムと異教徒との間に線引きをすることはできない。

 預言者は指示している。「お前たち、言葉の上では神を認めながら心のうちでは認めていない者達と、その取り巻き達の非を探すな。彼らの間違った行いも全て神の監視下にある。神によって彼らの行いは暴かれるだろう。」

イマーム・ジャーファル・サディークは信者のプライヴァシーを暴くことを禁じた。そしてそれが目に見えるもののことを指すのかと尋ねられた時、こう応えた。「いいや、私が意味したのは、秘密を暴くということである。」この私的情報を広めることにたいする禁止は、他人のそれに対してのみ適用されるものではない。個人はまた、自身の間違った行いについて言い触らすことも禁じられている。イマーム・アリは自身の姦通を告白した男に警告し、そして「己の罪は自身に秘めておく」よう助言した。シャリーアには罪を私的領域に留め、公共の目から隠しておこうとしている。預言者は、「己の臣民の間違いを、暴こうとする統治者は、彼らを躓かせる」と注意した。

 個人的な主張をする権利は、私的情報の公開に反対する命令の当然の結果である。もしもとある個人が自らの意見を表明することに乗り気でないのなら、誰もその人の考えの中身を詮索することは出来ない。さらに、それがどんな意見であったとしても、誰かの意見に賛成したということで刑罰の対象にすることはできない。意見は、正しいもしくは間違いだと、また正確であるかそうでないか判断されるかもしれない。しかし、どんな意見も刑罰の対象とはならない。刑罰とは意見ではなく行動、というよりは悪行に対して適用されるものである。イスラームは他人に対してその人の意見を尋ねることをただ禁じているわけではなく、間違った意見に同意したからといって、現世的な刑罰を指示したりもしない。私が他の論文においても主張したように、イスラームは言論の自由と宗教的信仰心の間で完全な適応性を持つ。そして、現行の習慣とは反対に、誰もイスラームの名において誰かが改宗したり、考えを変えたからといって罰することは出来ない。イスラームから離れることに対する処罰に、クルアーンによる正統な根拠はない。それにもかかわらず、この習慣への執着は続いている。

預言者の仲間の一人が、二番目のカリフ、ウマル・カターブについて書き残している。彼はある夜、街の中を歩き回っていたが、とある住居から悲鳴と悪態をつく声が聞こえてきた。そこで彼は塀を越えて覗き込み、一人の男に諭し始めた。「罪人よ、罪を犯すとき神がその罪を見逃すと思っているのか?」男は応えて、「あぁ、敬虔な信者たちの指導者よ、裁きを急ぐのはおやめなさい。私が罪を犯したと言うならば、あなたの罪はその三倍です。神は人に他人の間違いを覗き見することを禁じておられる。それにもかかわらず、あなたはそうされたのです。また神は、他人の家には正面から入るよう指示されています。そしてあなたは柵を越えて侵入されました。さらにあなたは私に挨拶もなしに近づきました。神は、他人の家屋に立ち入る時には家人の許可無しに、また挨拶無しに入ってはならないと指示されています」。と言った。伝えられるところによると、ウマールは男の許しを請い、男がそれを聞き届けた後もなお許しを請い続けたということである。

イスラーム初期のこの出来事は、一方でその時代の人々の自由さを示し、他方で、明確に私的領域の尊厳を描写している。私的領域で犯された罪は、政府とどんな関係にもない。もし罪の影響があるとすれば、それはまた別の領域、神と罪人の間の現世ではない領域にあり、統治者の権威の内にはない。要約すると、イスラームにおいて人は私的領域というものが確かに認められていると主張することができるということである。個人の私的情報や行動はそれぞれの個人と神の誓約に委ねられ、どんな人間も、たとえ政府であっても誰かの私的領域について尋ねたり調査したりする権威を持たない。さらにそういった情報を密かに知るところとなった場合には、誰も他人の私的情報を広める権利を有さない。個人的な主義主張を調べることは禁じられている。もし誰かが、彼または彼女の私的領域で罪を犯したとしても、それは誰かの、また裁判官や政府を含むどんな権威の前にも明かされる必要はない。大切なのは悔悛することであり、公共の目から隠されておくことである。シャリーアの中では、他人の私的領域に侵入することやそれを調べること、またそういった情報を広めること、それ自体が罪である。そしてそれは世俗的な刑罰に加えて、神の罰の対象ともなる。それゆえに、個人の私的領域における権利は、イスラーム社会において世俗的なそれがそうするよりも、より高次元なものが保障しているのである。


5.私的領域での行動の自由

 私的領域が本来備えている原則の一つは、自由選択の権利である。個人は彼、または彼女の私的領域の中では何を決めるのも自由である。そして他の誰も彼、または彼女に、その領域で優先するものを強いることはできない。預言者は、ある有名な伝承の中でこう明白に位置づけている。”人々は自身の所有物を管理する”と。誰も持ち主の許可なしに個人の所有物に介入することは出来ない。法学者たちは、この伝承から主権の原則として知られる法原則を引き出し、それは、一片の資産を管理する者は正当な所有者として認められることを示唆する。もう一つのイスラーム社会の中での私的生活を指示する原則は、『監督者の不在の原則』である。誰も、神による確かな宗教的任命がなければ、他人の生活を覗き見たり、優先すべきことを押し付けたりはできない。これら二つの原則の結果が、シャリーアの枠組みの中での個人の私的生活の自由である。これに基づいて職業、配偶者、名前、生活様式、そして服装などの選択は、私的生活の構成要素となる。イスラーム的な基準を固守する限り、人々は私的領域の中で完全に自由である。

 個人は、私たちが家庭と呼ぶ、彼または彼女の私的領域の中で主体者であり、社会の目から隠されている。そこでは、彼または彼女は何をするにも、たとえそれが罪だとしても自由である。この自由にはたった一つだけ条件がある。他の誰をも害しないこと、それが全てである。しかし個人が公的領域に入るや否や、どんな社会においても法によって彼、彼女に義務付けられた制限が存在する。公的な領域における個人は、服装や、性的ふるまいや、いくつもの社会的行為において文化によって異なる制限を課される。イスラームの基本的命令は刑法にあるが、このイスラーム社会では、個人に公的領域で特定な制限が課され、西洋を含むほかの文化のそれと比較することができる。これらの、服装、性的関係、飲食、経済活動、そしてもちろん宗教的関係などのカテゴリーに組み分けられる制限は、イスラーム社会における私的領域を、他の、現在に存在する世界の標準と比べて小さいことを示す。そしてそれ故にイスラームの公的領域は、世界のどこよりも広がっていることを示す。宗教的な背景の中で、これらの境界線をまたぐことは罪を犯すことである。そしてシャリーアに基く法に支配された社会では、公的領域で罪を犯すことは犯罪であり、刑罰の対象となる。公的な場において守らなければならないことは、宗教的な行為を外面的に示すことである。宗教の本質が個人の良心と神自身によってしか評価されえないということは明白である。それゆえに、たとえ公的領域でもその行動の本質と意図を強制することは出来ず、ただ行為の目に見える外面部分を公的要求に沿わせなければならないだけである。人間生活の全ての側面を宗教令が包含しているため、また義務的法令がかなりの数の行為を義務か禁止に分けているため、なすべきことをなさず、なさざるべきをなすことの内、表面的には否定的に見られていることが禁じられている。「勧善禁悪」は、イスラーム的義務の最も重要なものの一つであり、これなくしてイスラームの公と私の論議を充分に解明することはできない。


6.勧善禁悪

クルアーンとハディースの中で強調され、一貫した、この明白なイスラームの原則に基づけば、全てのムスリムは、正しいもののために、そして誤ったものに対抗して語り、行動することを求められる。これは個人から、集団、政府(諸々の統治者、主権者、など)に至る、全てに課せられた命令である。そこには、振る舞いを更正し得る、一定の条件と手順があるのである。ムスリムには、悪事も怠慢も正されるように、どのような罪の犯行に対しても、誠実に意義を唱えることが義務付けられている。つまり、その時彼らは、彼らの関心や要求を声にすることを促されるのである。そして最終的に、彼らは罪人に対抗することを求められる。この手順の三つの段階は、失望の表明、顔を背けること、そして、もしくは反対や失望の身振りとしての退去からなっている。声を出しての反対という第二の段階は、確かに個人の私的生活の干渉を含むことだろう。そしてもしそれが宗教上の許しがなければ、そう言い張ったところで、それは理に適ったものではない。これらの二つの段階は、誰にも求められる。しかし、それは一人の人間が対応すればそれで十分であろう。つまりそれが申し入れられている限り、もはや皆を拘束するものではない。言い換えれば、それは皆の宗教的な義務であり、宗教的な政府がない場合でも実行されなければならない。第三の段階は、物理的な段階を意味する。それは、イスラーム主義政府の権威の下に、危害を与え、可能であれば誰かの命を奪うことを含んでおり、政府の宗教的な大権と考えられている−これについては、別の機会に考える。そして宗教的な政府がない場合には、それは明らかに皆の宗教的な義務である。しかしながら、この最後の段階、もしくは最後の後の二つの段階は、通常、そのような行動を要求する資格を持った法学者が明確に要求しない限り、許されていない。

 私的領域の調査と取調べへの禁止は、依然として変わらないものの、全ての明白な義務と禁止は、勧善禁悪≠フ原則の対象であり、イスラーム社会の市民たちは、目に見える罪を公的領域で犯すことを許されない。もし誰かが法を犯せば、彼もしくは彼女は、ムスリム社会の他のメンバーによる、不快なののしりや直接的な警告、そして恐らくは物理的な干渉を伴う不満の表明に向き合うことを覚悟しなければならない。この原則の意義は、公的領域において、宗教的な規則に従うことへの、宗教的な強調のうちに見出される。この原則は、責任能力がなかったり、行儀の悪い個人の、公的領域への影響を減じることを助ける。公的領域で、個人の選択に任された事柄は、イスラーム社会の中においては、全く制限されたものだ。勧善禁悪≠ヘまた、政府を監視し、不正な統治者に立ち向かうための、ムスリムの手の中にある明白で力を持った手段である。この原則が、ムスリムの間で支持されている限り、政府の腐敗は逃されず、またそれを見逃す時には、政府はほとんど確かに、正しさや公正さから離れていく。一方で、この原則は社会における、イスラームの価値観の継続的な維持を保証する。信者が責任感を互いに持つことで、イスラームの教えに対する関与を深めるために適切な勧善禁悪≠フ方法に訴えることは、この聖なる原則の良い面である。しかしながら、それが厳密に適用される状態の充足を怠ることで、この宗教的な原則は、容易に不適当な、人々の私の領域の侵犯へと意味を変えるという点を看過してはならない。言い換えれば、勧善禁悪≠フ原則の濫用は、不適切な者や粗暴な者の手の中で、合法的な個人の権利と自由を破壊するための武器になり得るのである。こうしたすべてにかかわらず、イスラーム社会の市民が、少なくとも外見上は、イスラームの教えに従うよう縛られているということを見逃すことはできない。言い換えれば、シャリーア(イスラーム法)は、公的領域で、イスラームの規則に敬意を払わなかったり、目に見える法(イスラーム法)の侵害を主張するような個人を許さない。それでもイスラーム法は、彼らの私的領域の内では彼らの個人の自由を守り、他者が彼らの個人的な事柄を詮索するのを禁じる。

7.監視権限
監視権限は、イスラーム政府の制度の内にあり、社会における勧善禁悪≠フ原則を積極的に施行させる。より正確な言葉で言えば、イスラームの基準によって公的領域が整然としており、権利≠フ冒涜と誤った行い≠フ防止を保証するために、イスラームの統治者によって忠実な監視人が任命される。社会の利益に不当な理由がある場合には、彼は公的領域で、推奨されるもしくは許される行為・行動、そして明らかに不快感をもたらす行為を妨げることを、人々に施行することができる。実際に監視機関は、任意の無定見な流儀にとってかわって、イスラーム体制によった、集中的で調和した取り組みで、勧善禁悪≠フ原則の制度化を実体化させる。

その監視権限は、公的領域全体を包含し、従順な監視人はイスラーム統治者と同じ程度の(シャリーアの全ての分野を含む)、極めて広い権限を持っている。その管轄権は、貿易、商業の取引を含み、さらに宗教的な儀式の分野にまで及ぶ。市場監督官は、人々同士のお互いの諸権利、そして神と人々のそれらを認める。そして公的領域における宗教的諸義務の遵守を保証することが求められる。市場監督官は、もし怠慢であったり無関心になっていれば、ムスリムに祈りを思い起こさせ、人々に公正を義務付ける。監視人は、ムスリムが公然と断食を破っているのを制止することができる。服装についてのイスラームの基準の維持を怠った人々を拘束できる。同様に、もし市場で商人が、客に商品を与えなかったり、価格を吊り上げたりしていたなら、監視人は介入し、公衆に対する公正な取引を強要することができる。もし、誰かが受け入れられた規範に相反するやり方で宗教の教義を示すなら、監視人は干渉する権限を与えられ、それが提示されるか、もしくは何らかの形で公表されるのを妨げることができる。従順な監視人は、公の領域で、嫌悪される行為がなされることも赦さない。そして戒律が守られ、果たされることに気を配る。従順な監視人の任務は、公的領域のすみずみで、宗教の価値観と基準の遵守を保証することである。

法学者からの許しを得て監視人と管轄区の他の風紀取締者は、幾つかの場合で、貧者を見れば速やかに施しを行い、また罪人を見れば直接に罰することが許可されている。これはタアズィールと呼ばれ、宗教的タアズィールの一部である。別の言い方をすれば、監視人は次の手段に訴えることで、公的領域の浄化を図ることができる。つまり、命令された行為(義務行為)、勧められた行為(推奨行為)や許された行為(許容行為)を強要すること、そして禁止された行為(禁止行為)を禁じること、そしてまた、公的利益に添うならば、罪人や違反者に罰(タアズィール)を与えることである。監視人によって加えられる罰は、その最大限においてハッド刑ほど厳しくはないものの、罰金の取立てや短い期間の留置、そして体罰(鞭打ち刑のような)という手段も含まれる。監視人が、私的領域に立ち入ったり、妨害したりする権利を持っていないことは明らかである。監視人はまた、事柄が公的領域に関係しない限り、それを取り調べることを許されてはいない。

その事柄が私的であるのか、公的領域を侵害しているのかが疑わしいような場合には、監視人の自由裁量をもって基準となる。例えば、もし誰かが家の中で友人たちと一緒になって、家の私的領域で不適当な行いに熱中していたとしても、それが公的領域に影響を及ぼすことがなければ、この場合は、私的領域とし、それ故にそれを取り調べることは禁止されるのが適切なのか、疑わしい罪は見逃されなければならないのか?もしくは、それは公的領域の事柄だろうか、そしてそれならば、その行為を妨げる必要があるのか。他の例としては、自家用車は私的領域なのか、そうではないのか、である。

監視人の権力が、宗教的に汚れた(不浄な)行為(汚染源)から社会を浄化するための、イスラーム政府の強力な手段の一つであることに疑いはない。イスラームの統治者は、宗教的な見解に従い、任命者(ムフタスィブ)を通じて、私的領域を決定することができる。それによって、無責任であったり、手に負えない個人たちが、公的領域における生活の質を悪化させたり、傷つけたりする可能性を防ぐのである。一方で、市場監督官たちの無制限な権力は、私的領域への深刻な脅威である。そしてそれに自由な支配権を与えることで、それが明らかに私的であり、個人的な行為である場合についても、公的領域から個人の行動のための全ての自由を奪う。言い換えれば、私的領域の境界は、ほとんど、それぞれの私宅にまで縮小しかねない。つまり、全ての私的な事柄は、公的な目にさらされる場合には、完全に個人的で私的な生活であっても、公的領域に属していると考えられるようになる。このように、個人はいかなる権利や決断の観念も奪い去られ、宗教的統治者は、従順な監視人を通じて、個人に対する全ての決定を下すことだろう。個人は、自身の意思に反して振舞うことを強制されることにもなり得、従わなければただ罪が待っているだけである。監視人(ムフタスィブ)は言論の自由さえ、制限するか或いは奪い去ることだろう。

最大限広い意味での公的領域で、すべての統制を特権として統治者が握ったら、その時、人はどのように統治者の権限に挑むことができるのだろうか。活発に監視人が巡回する下で、私的領域が無視し得るほどの範囲まで縮小し、最終的には各自の家からなる私的空間に閉じ込められることになるのは明らかだ。イスラームの一般的な見解は、スンニー派、シーア派ともに、公的領域は極めて広く、そしてイスラーム政府による、あまりに権威主義的な権力執行に服している。つまり、家の外で認められる私的領域は、実際、全く取るに足らないものである。


8.イスラーム政府に帰属する権威の範囲

政府の権威と、私的領域及び個人の自由の範囲は反比例の関係によって成り立っている。政府が絶対的な力を行使し、それが市民の私的領域を侵害することを抑制されない場所においては、私的生活と個人の自由は殆ど意味を持たない。この問題は宗教政府に独自なものではなく、一般に全ての人間社会における問題である。私的領域は全体主義政府や独裁主義の下では他の社会に比べてより脅威にさらされており、私的領域は本質的にそのような社会では意味をなさない。同様に、宗教政府が全体主義や独裁制を採用するときは、私的領域は非宗教的な環境におけるよりも打撃を受ける。というのも、全体主義の指導者が文字通り市民に地獄を作っている現世の神々であるが、宗教政府は、神聖なる天国の名の下に全く同様のことを行うためである。

健全な社会の市民は市民社会≠フ強化に努めるべきであり、それは政府の力の抑制のためにもなる。いかなる周囲の状況にも脅かされないやり方で、最小限の法が私的領域のために提供されるべきである。つまりこれは健全な社会の象徴である。政府は国あるいは公共の利益という口実の下で、定期的に市民の私的領域への干渉を目論む。それに対する反対勢力、特にその主張を声高に行う人々は、より自分たちのプライヴァシーが侵される傾向にある。イスラーム政府によって支配されているイスラーム社会において、例えばスンニー派のムスリムにおけるカリフ制、或いはシーア派のムスリムにおけるウィラーヤーテ・ファギーフ(守護監督権)の場合において、公共利益は簡単に私的領域を切り裂くことのできる刀剣である。

公共の利益(体制としてのマスラハテ・ネザム)が宗教的原則よりも神聖なものと考えられるならば、イスラーム社会は一時的なシャリーア停止を、公共の利益を守るという名目でもって、正当化するであろう。個人の事柄や個人の私的生活への覗き見が、必要とあれば許可され、或いは強制力さえも持つであろう。マスラハ(公益)は銅を金に変える触媒である。無制限な絶対権力とともに、国家利益を認めることは、国家に私的領域という布を切り裂くことを許可する委任状を与えるに等しい。非常事態における国家権威の制限を、法の中で成文化するべきであり、非常手段は短期間においてのみ用いられることが保障されるべきである。非常手段を濫用すること、特にそれをイスラームにおける支配者が用いることは、私的生活と合法的な個人の自由を大きな危険にさらす。

絶対的な権威から必然的に発生する、制御の効かない腐敗に対する予防策として、絶対権利はすべての市民の特権であるべきで、国家はこの権利をいかなる状況に置いても侵害できないとする、厳しい法的な制限が課せられるべきである。宗教的制約は、いかなる状況においても、いかなる時、場所においても、いかなる制度の名においても侵害或いは抑制されないように線を引くべきである。非常時の判断(マスラハの判断)においては、それは国家の特権であるべきではない。さもなければ宗教は政治の僕となる。宗教の分析と解釈は国家に属するものではない。さもなければ宗教は真に脅かされることとなる。公益の判断(マスラハ)はそれ自体がしかるべき立法制度に対して責任を持ち、市民の保護において機能する選挙制度によってなされるべきである。最後であるが、しかし大事なことは、誤りに陥りがちな人物に権力を集中することと、その人物に絶対権利を帰属させることは腐敗を生むことにつながり、最終的には宗教的諸原則を完全に消し去ってしまうであろう。


9.宗教意識の高まり
 勧善禁悪≠フ原則はそれ自体において、その実行における正確な基準なしには十分なものとなり得ない。風紀取り締まりの制度、そしてイスラーム国家に無条件な権力を与えること、国家の利益を全ての宗教的原則より優先することは、イスラーム強化とイスラーム法(シャリーア)の実行の意図を伴うならば、全て上手くいくのかもしれない。しかしそのようなアプローチをもってしてもやはり、宗教的な、せいぜいうわべ繕いだけが社会において強制される事態が生じ得る。たとえ信者或いはイスラーム国家がそのように禁じられていることを根絶することや、命令されたことの実行に成功したとしても、イスラームの真の本質は公共の場において弱まっていくであろう。詐欺や二枚舌が広まること、そして外見上においてイスラームを維持することは、単なる押し付けられた信仰深さの落とし穴に過ぎないのである。私的領域、家庭においては、市民がさげすみや侮りを持つにすぎない一方で、公共領域においては外見上イスラームを留め維持するということは、果たして良いことであろうか?

信者の責任は預言者のそれに取って代わるものではない。預言者はイスラームを人々に授けることを課せられたのであって、強制することではない。勧善禁悪≠フ原則はムハンマドのシャリーアにおいて求められることであるが、それは哀れみ慈悲深い宗教としてのイスラームの文脈において捉えられるべきである。肝要なことは、勧善禁悪≠フための土壌を準備することが急務であるということである。人々はすすんでこの崇高な価値体系の利点に目を向けるべきである。肝要なことは公衆の宗教意識の再構築にある。弱い意識は正当性を欠いた行為を生む。公共における宗教意識を清めることなしにうわべだけで正しい方へと導くことを強制することは、不利な状況の修復を失敗させる。神はその僕に、自由に、また任意に正しいことを行うことを選ぶことを望んだ。もし神が僕に強制することを望んだならば、神は自らそれを課すであろう。神は彼の使者に対し、そのイスラームの紹介においてさえも強制を許さなかった。入信への見込みはこの繊細な点を明らかにしている。宗教において他人の行動に注意を払うことは、私生活を認めるための法律にあたっての明確で最低限のしばりを設けなくてはならない。風紀取り締まりの体制は国家体制からの作用である必要はない。それはむしろ市民組織の文脈において、公によって委任され、民間組織によって行われるべきである。それは腐敗を防ぐ点、道徳的な誠実さを促進する点ではるかに効率的なのである。イスラーム思想は絶対的で専制的な支配を自らのものでないと見なし、イスラーム的な定義においていまだ明確にされていないものを利益と認めはしない。イスラーム司法はそのような人々の生活や名誉、所有権に関係する事柄に対して厳密な注意を払うことが必要とされる。そのような原理原則を伴って、最低限の権利法を司ることによって、イスラーム社会における私的領域が宗教の指導者や教条主義的な与党支持者の恣意から守られることを保証する。そのような点を注意することによって、イスラーム社会における公と私の領域は均整のある釣り合いを維持する。そのようなバランスはすでにイスラーム諸文献の中で十分説明されてきたが、しかしムスリムは徐々にそれらを看過しつつあるように見える。私的領域が、宗教的原則の枠組みで上手く機能し、公的領域と並列した形となったバランスに達するためには、我々のイスラーム的遺産を見直すための、新しい努力を必要とする。そのような試みが施行されることは拙者の誠実な望みである。願わくば、現代のイスラーム思想における私的領域の概念により提案される試みの批判的分析を通して、我々はイスラーム社会における公私領域のバランスを望ましい形へと近づけるのだ。そのような望ましい状態の詳細な原動力を説明することはまた別の機会に譲る。

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